Love is on line

昨日は、アサヒアートスクウェアでパフォーミングアートを観た後、浅草でなぜか牛角牛角って本当にまずい。ひさしぶりに食べたのだけど、先ほどのパフォーミングアートの感動を薄れさせるくらい感動的にまずかった。
それでも一緒にいた人が昔からの友人だったため話だけはそこそこに盛り上がり、久しぶりに過去の男の話したちもちらほら。やはり、みんな私の容姿からしてどうしてあんなにイケメンばかりとつきあえたのか、というところに興味津々で、本当にみんな失礼だと思う。“この巨大資本産業の本質はインナービューティーだ"とナイジェルも言っていたじゃない。


終電でほろ酔いで、時折雨のぱらつく夜の街をたらたら歩いて帰っていたら、久しぶりに着信。でようかどうしようか、ちょっとだけ迷って、それでもやっぱり出ることにする。もう何度も聴いた、話始める前の軽い呼吸の音。年に数回ある着信で、2年前から私は彼のこの、呼吸に合わせて自分も一緒に呼吸をするのがマイブーム。軽く近況を話す。来週は私の誕生日。てっきり付き合った期間よりも別れてからの時間が長くなった今でさえ毎年の恒例行事として行われている、「誕生日お食事会」のお誘いかと思っていたら、違った。
「スペインの祭りに行かないかい?」
「スペインの祭り?」
「来年7月。街を行くパレードが見える最高の部屋がとれたから」


突拍子のなさを愛している。
忘れていた炎が再び灯るのを感じる。来年7月まで、私はこの小さな炎に生かされることになるだろう。


容姿に恵まれない女が、見た目の良い男と付き合えるルールその1。
「奥さんと子供は?」なんて無粋な台詞ははかないこと。


私はちょっと考えて、「うん、どうかな、まだわかんないけど、心にとめとく」と答える。
駆け引きじゃない。本当に、わからないからそう答えるだけ。歳をとって素直になった。欲望に素直に従っても生きるのがそう大変じゃない。
それは、私が必死に造り上げてきた世界が徐々に整ってきたからか、それとも私の欲望が等身大になってきたからか。
素直に、もう一度彼に逢いたいし、また抱かれたい。彼にしかできない方法で。


いつだったか彼は来世では私と一緒になると言った。
私はそれで、この世での呪縛から解かれることができた。
来世では、私はこんな男と出逢うのはごめんだけど、でも、生きている限り、私たちは続くだろう。不思議なこと。
この関係が、もし同居人にばれれば、私と同居人の関係は終わるだろう。でも、このスペイン男との不確かな関係は、途切れることはない。
日常を共に過ごすことの、なんてもろいこと。私はこの3年間、必死に日常を作ろうと努力してきたのに。どっちが、より深い絆かなんて、分からない。

ただ、非常に身勝手な私が知ったのは、愛は広がりがあるということ。
限定しない。限定できない。


いつのまにこんな女になったのかしら。若かりし頃、私が喚いた身勝手な男たちへの不条理な想いは、いまそのまま私に向けられるべきもの。
何が、そんなに魅力なの?
たぶん、愛し合うことそのものが。
言葉を交わして、キスをし、体に触れ、満たされ、絶望し、孤独に震え、涙を流す
ことの全てが。私はそれらの衝撃が好き。
愛を証明したい、とも思う。でも証明してどうするのだろう?戸籍にも、墓石にも、携帯会社にもスポーツクラブにも、どこにも私たちが愛しあった証拠は残らない。
でも、愛してる。
要約すれば、愛している。
これで充分だろう。