わたしを離さないで

わたしを離さないで

いや。いやいやいやいや。
久しぶりにすごい本を読んでしまいました。
カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」。

絶賛の声を聞き、まあ以前からカズオ・イシグロのファンではあったし、発売になった直後の4月になんの前知識もなく購入したのだが、最初の50ページくらい読んであまりに普通の小説で、仕事も忙しいしもっと刺激的な小説が読みたくて放置。
しかし最近朝日新聞のインタビューで、これがクローンを題材にしたSF小説だと知って、あの単調な出だしからは想像できなかったストーリー展開に興味をもち、読み進めることを決めた。

いや、もう、すごいよ。
読み始めてから一日で一気に読んでしまいました。
この衝撃はクッツェーの『エリザベス・コステロ』以来。
私は無知な馬鹿なので(あ、なんかSMクラブみたい)読書の感想はここには綴らないことにしているのですが、でも本当にすべての人に読んで貰いたい作品です。

私は始終泣き通しでした。
あまりに切なくて哀しくて。それが、陳腐ではなくて、涙をそそるような文章ではなくて。

今年の私のベストブック賞を差し上げます。いらないだろうけど。

と、言うわけで車を買いました。
マツダのベリーサ。ちょっと前までマツダ君なんて、っていったわたしだけど、ベリーサは別さ。すごくかわいいのです。内装も高級感あるし、ドアがばたんと閉まる感覚が、高級車並み(それはほめ過ぎ)。色はオレンジ。内装を革シートにアップグレードし、ドレスアップパッケージをつけて、ナビとETC、その他もろもろのアクセサリーとか手数料とか税金込みで250万円を、割り引いて貰って220万円で決め。ただしほぼフルオーダーとなるため納車は1ヶ月後だってさ。待ち遠しいなー。まだ街中でオレンジのベリーサには出会ったことないです。だから、1ヶ月後くらいに青山とか恵比寿とか練馬区とか世田谷区とかその辺りを(広いなー)走っているオレンジのベリーサがいたら、あ、しゃるちゃんだ、と思って手を振ってください。投げキッスを返します(いらないだろうけど!)。

と、車を買うなんて暴挙にでた裏にはいろいろあって、このところの日記の更新状況をみても察しがつくだろうけど、仕事がべらぼうに忙しいんですわ。「仕事は手を抜け」が座右の銘の私だけど、やらなくちゃならんときにはなるし、やりたいときはやる。じゃがいも上司が消えた今、私の位はあがり単なる編集者に、副と長という名前がついたりしたわけだ。といっても、私の部署には私一人だから、ひとりきりのバースデーみたいな感じで、進行管理と統括の責任が増えただけで、相変わらず一人で取材に行き、一人で書くという孤独な毎日。やっとられんわと訴えたところ、またまた給料が上がった。世の中のすべての事柄はお金で解決♪素敵な社長。
かくして私は金の亡者に(ていうほどもらってはいないがな)。働きづめの(てのはうそ、イタリア語習いに行ってるの。たのしいよー。ベーネベーネ)ワーカホリック。たまの休日は車でヤマヤに食材を仕入れに行きたい。そんな願望から車を手に入れたのでした。

とはいえ、私は今後3年間で、必死に働き通して資産をちょっと作ったらまた休むつもりです。今度は子供を産んじゃうかもしれないし、留学でもするかもしれない。いずれにせよ、一年ごとに仕事を辞めて海外に遊びに行っていたのと基本、姿勢は変わりません。ちょっとスパンがながくなっただけ。


さて。話は変わりますが、子供の話。
平日は夜遅いし、休日ともなると遊びにでるか一日寝たおすのが昨今の私。
同居人の子供と関わっている時間が全くないこともあり、非常に距離を置いた関係にあります。
私は、これに関しては、誰にも文句を言われる筋合いがないようにがんばっている。つまり、この一年で給料を年俸で250万上げた。まあがんばったと言えると思う。運が良かったともいえるだろうけど、私の努力だって考慮されたはず。そして、これはひいては同居人親子の生活レベルをあげてあげている。器用貧乏な15歳上の同居人より、私の方が今は稼ぐ。家のことは彼にすべて任せた。私は、稼いでくるよ、同居人。車を買ってあげよう。あなたの独立するための費用も融資してあげよう。私はあなたの将来のための積み立ても始めたよ。普通なら、こんな15歳年下の彼女はいやだろう。でも彼は、それを嫌なら断り、好むなら喜んで受け取る、非常に素直な人なのだ。そして、私の誕生日には、素敵な鞄と私の生まれた年のワインを、しかも私の好きな蔵本のピノ・ノワールのワインを、探してプレゼントしてくれる、心優しい人なのだ。
話はずれたが、私はこの先もっともっと稼ぐつもりです。私は、将来、子供を産んで自分の家庭を築くために、さらにそこそこの生活をするために必要なお金を自分で今のうちに稼いでおきたい。子供が生まれたらある程度は一緒にいたいし、それには今の仕事のままでは無理。
やりたいことを提案し、採用され、がんばり、それが認めらて反応があるのはやっぱり楽しい。働きたいか、働きたくないか、と言われれば、もちろん私は働きたくない。だからと言って、専業主婦となり、自由に使えるお金もないまま安めっぽいトレーナーとだぶだぶのデニムで子供の送り迎えをする女は、私の目指すところではない。もちろん、それは虚勢だ。普通に結婚をして、新品の生活を手に入れることが不可能な私は、地区の祭りに行っても、子供のはしゃぐ姿に目を細める同居人とその親たちの輪から外れて、無邪気にはしゃぐ子供たちにも冴えないパーマの主婦たちにも嫌悪感を抱き、ぽつりとその場にひとり立ちつくすしかない私は、何か、確証を持つしかない。
たとえば、仕事の質。たとえば、年収。

なんとまあ、私はつまらない人間になったこと!
28歳。ぎすぎすする時期なのかしらね。あるものは結婚を追い、あるものは仕事を追う。
でもそれも許そうと思う。なにしろ、私は今精一杯だ。
心とは裏腹に、最近いろいろな人が言い寄ってくる。飲みの誘いが絶えない。
たとえば「しゃるちゃんといると落ち着く」と。「安心できる」「頼りがいがある」「癒される」。
勝手にしてくれ。私にはどうでもいい。私は癒されない。どうでもいいから、私は聞き流す。あらゆる情報が私のもとに集まる。私はそれを誰にも売らない。だけど、多大な情報が私のチャンスの繋がる。もちろん遠回りに。なんと不思議なこと。

そうだ。それで、子供のこと。
みんな、言うんだ。
「私は、子供の目線で話さない。友達みたいに振る舞うのね」とか。
「子供扱いしない。自分がそこに一緒にとけ込むのが楽しい」とか。

みんな、なんて呑気なんだ。なんて自己中心的な大人なんだ。
そんなこと、私にだってできる。子供嫌いな私だって、同等の目線になるくらいならば。
でも、彼女が求めているのは、切望しているのは、「お母さん」。
この世で唯一、無条件に、なんのためらいもなく、なんの疑いもなく、必要とあらば自分の命だって差し出してくれる「お母さん」を、彼女は求めているんだよ。

みんな。子供の頃求めたものは、「お母さんみたいな友達」ではなく、「友達みたいなお母さん」だったでしょう?
最終的に求めたのは、お母さん。絶対的に愛してくれる、守ってくれる存在。

私自身、母の愛を信じて、ここまでやってこれた。

もし私が、彼女と親しくなって、というか、親しくならずとももう分かり切っていることだけど、「お母さん」を私に要求してきたら?

私の体は拒否するだろう。
「あなたに、金銭的な援助も生活面での援助もしてあげられる。でも、ごめんね。がむしゃらに、あなたを愛せないの」。

こんな残酷な答えが、この世の中に存在するだろうか。

だから私は、彼女と距離を置く。

のちのち、彼女が経済的負担を私にかけることになっても、私はそれを苦と思わないくらいの経済力を持っておきたい。
かつ、私は自分の子供と私の生活を、もちたいのだ。

だけど、
どうして、こんな苦労をしながら私がここにいるか?
私はもう、十分一人でやっていける収入を得ている。
28歳。若くはないかもしれないけど、私はまだまだ若いつもり。

だけどね。
私の心が一番休まるとき。
すやすや眠る、恋人の布団にもぐりこむとき。おっと元、恋人。
半ば意識のない元恋人に、あーもうめんどくさい、恋人に、
「愛してる?」と訊ねると、ねむねむのまま「愛してるよ」。
「世界で一番?」。むにゃむにゃ「世界で一番」。
それだけだ。それだけ。