1+1が2じゃない世界

堀江敏幸の「河岸忘日抄」すばらしいです。


私は平和主義だけど好き嫌いの激しい人間で、どういう女が嫌いかというと、自分のことを名前で呼ぶ女だ。大丈夫か隣の女27歳。ちなみに職場で自分の父親のことをパパという女も嫌い(今までの人生で5人あったことがある)。だいたい自分のことを名前で呼ぶ女とパパという女は同一で、そういう精神構造そのものが受け入れられない。ろくな仕事をしないし、公私混同しがちだ。一般化するのはよくないけど、でもそういう女は迷惑な確率が極めて高い。だから近づかないようにしてるのに、どういう訳かいっつも席が隣になっちゃうんだよ。かわいそうな私。



今の恋の行く末に私は悩んでいた。
だけど職場が変わって(とはいえ直線距離で800メートルだけど)、仕事もとても楽しくなって(忙しいけどとても楽しい!)、考え方がかなり変わった。

今日初めてここを訪れてくれた人のため、状況を簡単に述べると、
私は27歳。低所得で働く編集者。未婚。
恋人は42歳。同じ業界。同じく低所得。子持ち。一昨年妻と死別。
私たちは、現在同棲中。二人の仲は非常に円満。三人になると少々怪しい。
私たちは結婚を前提につきあっている。
だけど、これを好意的にとらえる人はあまりいない。

私はいつかは自分の子供がほしい。だけど、恋人が15歳年上となるとあんまりうかうかしていられない。5年後、つまり私が32歳のとき、恋人は47歳で、子供が成人する頃には67歳だ。今の私の父より年上。
だけど、私には結婚する覚悟がない。
恋人の娘の母親という立場は責任が重いし、一時期の苦痛の日々はちょっとおさまったけど、今でも日曜日の夕方5時半くらいに沸点が訪れる。
両親もあまり賛成ではない。もちろん私が決意すれば、快く祝福してくれるだろう。でも、親の心理として当然、あまり喜ばしい話じゃないだろう。こんな業界にいるからたいして給料がよくないのも父の不安の一因(と、いうのは私の父は年功序列で終身雇用のまっただ中に生き、退職金だけでも私たち二人の生涯所得を上回るかもしれない)。
結婚に踏み切るにはあまりにも生涯が多く、私は、苛立つし不安になる。
いっそのこと子供でもできれば踏み切れるかと思うけど、出来ちゃった婚はいやだと、恋人は言う(それもわがままだよな。私を安心して引き受ける甲斐性がないくせに)。
で、しばらく別れようとか、早く結婚しようだとか、いろいろ考えてぐるぐるぐるぐるうだうだうだうだしてたのだけど、原因は、結婚にあったんだ、ということに気がついた。
そうだ。結婚しなければいいんだ。
くだらないじゃんねえ。籍をいれるなんて。私は自分の姓を愛しているし、どうせ家族手当とか配偶者手当とかない会社に勤めてるわけだし。籍をいれることにこだわっていたから、あんなに苦しかったんですねー。

現実に私たちは今一緒に暮らしていて、事実婚状態。もちろん、私は一人の女の権利として、子供がほしいからいつか産むけど、それはまあ自分の仕事とか収入とかで区切りがついてからでいいんじゃないかな。ひとつ屋根の下に、恋人と恋人の姓を名乗る恋人の娘と、私と私の姓を名乗る私と恋人の娘が住んでいてもいいんじゃないか。それでは子供がかわいそうなんて、いったいどういう価値観で線をひいているのだろう?たとえ姓を同じくしても、恋人の娘と私は親子ではないし、姓が違っても恋人と私の子供は親子だ。

そう考えたら、私の気分はかなり晴れた。焦らなくてもいいし、苛立たなくてもいい。お互いに大切なだけ、必要なだけ、一緒にいればいい。

だけど、私はやっぱり悲しい。
夢見ていたミキモトのティアラについて、ティファニーの結婚指輪について、淡いグリーンのバラのブーケについて。
位牌の上で最上のほほえみを浮かべる亡き奥さんが心からうらやましい。涙がでるほど、うらやましい。
この失望が、この関係を続けていくための決意をうわまらなければいいと思う。そう願う。私の失望は、ちょっとした反発となって恋人に向かい、この溝が深くならなければいいと思う。