カウント・ダウン

恋人の留守中に固定電話のプラン変更をすることにした。カスタマーセンターに電話して、変更の旨を告げる。オペレーターは異様にはきはきと「失礼ですがお電話口は奥様でいらっしゃいますか?」と。

込み入った事情を説明するのもめんどくさいので「はい」と答えると、「失礼ですがお名前よろしいですか?」

一瞬絶句して、えっと、登録してあるなら以前の奥さんの名前だよな、と、思ったけど、えっと、えっと、なんだったっけ。名前が出てこなかったので咄嗟に位牌をくるりんと裏返して、「えっと、ジェシカ(仮名)だと思います。そちらに登録してあるのは」と言うと、ただならぬ事情を察したのか電話の向こうでも若干あわて口調で、「あ、いいえ、確認のために伺っているだけで別にこちらに登録はございませんので・・・っ」。
あ、なーんだ。そうなの?


ごめんなさい。ジェシカさん。いきなり裏返されてびっくりしたよね。
帰宅した恋人にそのことを告げると大笑いしてました。

新しい会社に勤め始めて3日目です。結構楽しくやってます。転職も4回目となると、初日の緊張なんて初日で消える。すぐに適応して自分空間を作り上げるのは得意です。なんと言っても舞台はおしゃれタウン青山。一歩オフィスを出ると道行く女の子はみんなかわいい(いいすぎた)。ラッキー(?)。会社は立地で選ぶというのは私の信条で、恵比寿→青山という流れは私の趣味です趣味。出版社とえいば神保町近辺が多いですが、私はやです。ごはん食べるところが少なそうなんだもーん。て感じで、恋人と職場が離れてしまったのはランチ友達がいなくなってちょっと寂しいけど、そろそろべったりな生活にも沸点が近づいていたので潮時だったのかな、と。と、いうわけで新しい会社でもがんばりたいと思います。

昨日は懐かしい人からメールがあり、久しぶりに飲みに誘われる。男の子と飲むなんて久しぶりだなあ。うれしいなあ。ってすっかりおばさん。合コンなどにもお誘いがかからなくなったし、飲み屋で隣の男の子と意気投合して朝まで飲むなんてこともここ半年ない。つまんないつまんない!でも私の右隣には飢えた33歳がいて、入社して2週間目で「会社に男が少ない」からやめようかと思ってると言っていて、がつがつしてるのもおばさんっぽい。おばさんにならないためには気をつけることがいっぱいだ。
ところで私は今の恋人に自分でも驚くほど全身で愛を注いでいて、本当にここまで言うほど心で愛しているかというとそうでもないかもしれない。だけど愛してる分だけ愛情が還ってくると思うと、とにかく貪欲に愛してる愛してるとわめいてしまう。寂しがり屋。「彼女は単なる精神安定剤だ」とその昔浮気直後の男がほざき、誰かこいつを殺してくれと思ったけど、方向的には似ている。方向的には似ているけど、道筋は全く違うんだ。あの人が欺くのは他人だけど、私が欺くのは自分だけ。だけど、お互いに求めるのは自分の精神安定。
ひたすらまっすぐな恋を私はすでに失った。かつての竜巻のような恋は、自活できた。そもそも一人きりで成り立っていた。相手は幻だったかもしれない。だけど、今は、あの人がいなくちゃ私はだめで、たぶん今、あの人が消えてしまったら、私はがたがたになるだろう。依存。そういうのを、愛していると言ってもいいのかもしれない。

朝、洗面所のドアを開け、出勤の支度をする私を恋人がぼんやりと見ていた。どうしたの?訊ねると、それは、それは頼りない声で、「マロン(犬)が死んじゃった」。

それはかつての奥さんとその人が動物保護センターからもらってきた甲斐犬の雑種で8歳になるメスだった。奥さんが亡くなり、幼い娘の世話と新しい恋人の相手に忙しいご主人さまに、餌とトイレ掃除以外、ほぼ放置されていた哀れな犬。いつも私が通るたびに哀れな顔でこちらをみていた。いつかお散歩に連れて行ってあげよう、そう思いながら私は初対面の成犬は怖いし特に甲斐犬って大きいし毛も短いし、なんとなく二の足を踏んでいた。ちょっと、あの人の娘とかぶることもある。何かしてあげなくちゃと思いながら、何もしたくない。私は責任を、負いたくない。あの人が過去に別の女性と得たもので、それは、あの人が処理すべき問題じゃないか。とはいえ、割り切れなくて、そこに葛藤が生じて、嘆き苦しむ私を見ても恋人は、何も言わない。一切の責任を私に課さず、ただ、愛している、そう言う。私の不安や不満は行き場がなくて、曖昧になる。言葉を重ねるほど私だけが空しくなる。ひとつ、その重荷がなくなった、と安堵すると同時に、自責の念に囚われる。思ってながらも出来なかった自分に。だけど、安堵と後悔を天秤にかけると安堵が大きいことに。心の底では、私と同様に考えているのじゃないかと思いながらも、大丈夫?と顔を覗き込むけれど、大丈夫、ちょっとびっくりしただけだよと、力なく微笑むその顔からは真意はわからない。
ひとつ重荷はなくなったけど、もうひとつ、比べ物にならないくらい大きな重荷があって、私たちが破局するとしたらたぶんそのことが原因だろう。その原因と私は相変わらず、ぎくしゃくとしていてこの溝一生はうまることはないだろう。
子供ならではの残酷さで、「パパとママが逆だったら良かったのに」と言うその子の言葉を洗濯物をたたみながら「そうか」と相槌を打つ私は非常に客観的で、自分だって子供の頃父か母かと問われたら、断然母だったなと、彼女に純粋に同情する。
ようやくアニメの音になれた私でも、疲れて帰宅した食卓に鳴り響くその子のゲームボーイ特有の耳障りな電子音は我慢できない。たとえば夜10時を過ぎてもだらだらとアニメを見続ける7歳の子供やそれを許している父親に腹が立ったとしてもそれは私が寝室に閉じこもってしまえばいい話だけど、食事中は逃げ場がなくて、だんだん電子音に頭が痛くなり、お風呂に入ってくる、と食事も早々に逃げ出す。どうしたの?と訊く恋人に、神経質で本当に申し訳ないけど、私、あの音が苦手なの、と台所で吐く思いで打ち明けるのが私にできる精一杯で、直接その子にやめて、とは言えない。私が電子音に鈍感な女だったら別に気にもならなかったのだろう。その子の学校では唯一の宿題が音読で、意味のない文章を何度も読んでいる。チェック項目は大きな声で読める、とかはっきり読める、とかで、その昔、宿題の音読をするという7歳の私に、私の母は、「やめてうるさいから。本くらい読めるでしょ?そんな無駄なことしてる暇があったら計算ドリルしなさい」と言い私は驚いたけど、そんな合理性も真の親子なら追求できたかもしれない。結局、いったい誰が選者なんだかわからないけどくだらない文章を読み聞かされても私は、上手ねえ、とにこにこしている。
だめだわ。
こういう不満はいくらでも出てくるけど、ここでストレス解消をしている場合じゃない。ここでストレス解消できる限りはまだいいけど、そのうち「書いてストレス解消」にも飽きちゃって、溜め込むようになったらいよいよやばそう。この根本をどうにかするために、私はもっと割り切るか、歩み寄るか、立ち去るか、しなくてはならないのだけど、万策尽きたのかもしれない。
だから、ますます不安になって、愛してる、愛してるとわめいて、やっぱり私はいつでも、最後はわめきすぎて、壊れていってしまうみたいだ。