心臓を賭けてもいいよ

ビッグ・フィッシュ」のDVDを買いました。私がこの映画がすきだというと、「へえ」と言われることが多いですが、なんでだろう:-)

コーヒー屋でぼろぼろと泣いた夕方、会社を出るといつもとは反対の方向へ向かって歩く恋人がいて、異様に気温が下がった夕暮れの街を相変わらずの早足に合わせて少し息を切らせながら25分間もてくてくと、何も問わずについて行った。たどり着いたのは、私の一番好きなアクセサリーショップ。そこで、シルバーの指輪を買ってもらう。クリスマスプレゼントですか?すてきですね、と言う店員さんに、にっこりと頷いて、あれでもない、これでもない、と指輪をつけかえる。こんなことをしてもらったのは生まれて初めてだ。どうして、こんなに私を大切にしてくれるのだろう?その後、彼がかつてよくきていたという居酒屋に行く。激しく泣くというのは、たいそう体力を消耗するようで、一杯のカールスバーグが、涙によって活性化された顔の中央の血管を活発にして、おでんの中のはんぺんを鼻の頭に乗っけているみたい。じーん。

金曜日は、神戸に本店を構える生ハムと薄切りの玉葱を特製のドレッシングで食べることが有名なステーキ屋でディナー。能楽堂のあるレストンランという言葉通り、能楽堂はあるけれど、本日はフルートとピアノの生演奏。「夕焼け小焼け」から「ママがサンタにキスをした」までそれはそれは多彩だけど、それよりも驚いたのは、この店にはちゃんちゃんこが備え付けられていて、客はそれを着ることになっているのです(どうりでみんな同じような服装の客ばかりだと思った)。ステーキが鉄板で出てくるため、ハネが飛ばないようにという配慮なんですけど、なんだかいいねーこのちゃんちゃんこ。客層は比較的年配の方々が多いからみんな楽しそうに着てたけど、多感なお年頃ならちょっと抵抗を覚えたかも。
で、ステーキは、さすがにおいしかったよ。私は鉄板の上に乗って出てくるってのがいやなんですけど(最終的に火が通り過ぎちゃっていや)、この店なら許す。
おいしい食事につられて、普段自分のことを語らぬ彼の口もちょっとなめらかになる。かつての妻が、亡くなるまでの経緯。乳癌と診断されてから、1年半でその生涯を終えたこと。
「運命とはいえ」
彼は言う。
「あまりのスピードだった」


「運命とはいえ」

通常、恋人の立場にも、娘の立場にも、亡き妻の立場にも、極力ならないように努力を重ねる私の心にも、その瞬間だけは、侵入を許す。

「だけど、彼女は最後の最後まで、諦めなかった」

その言葉に、「幸せだったのよ」
そう言ったとたん、また涙が溢れる。

この涙は、純粋に、悲しい涙だ。
目の前にいる、大切な人が、愛する人を失うつらさが純粋に、心を締め上げる。

私は、彼の望む形の女ではないだろう。
わがままで、気分屋で、不器用でおっちょこちょい。
娘の母親には、ならないと、宣言はしないけど、体全体からオーラを放つ。

こんなはずでは、なかったと思うことがあるのだろうか?
(今カウンター越しでたばこを吸っていたから、こんなはずじゃなかったと思うことがある?と訊いたら、ない、と言われた。なんだないのかー)

と、いうより、この人は、人と一緒にやっていくことが基本で、そのために我慢したり諦めたり努力したりする傾向があると思う。

動機が明確な私とは正反対に。

でもそれはたいした問題ではなくて、結局二人が一緒にいたい限り、目指す方向が一緒ならば、いいんだ。いいんだ。


「あなたの立場になってみたりしない」

妥協したり、我慢して受け入れることのひどく苦手な私は、つねに明確な目的をもっている必要がある。
つまり、私の願いを常にかなえ続けていくこと。私の願いが、常にここにあること。妥協したり、諦めたら、私はここにいる意味を失うだろう。彼を愛するために、彼の立場にたったりしたら、たちまち私は壊れてしまう。
これが、私の愛し方か。
相変わらずハードだねー。
相変わらずハードだ。だけど、これはもう、性癖だから。
愛して。愛して。愛して。
どっかにいくかもしれないし、いかないかもしれないし、わかんないけど、まあいいわ。深く傷つけ合うことになろうとも、いつだって、私は100%で突き進んできた。これからも、かわんないだろう。かわれないんだろう。たぶん。