鈍感な男にはありったけの涙で

都内のデパートの食品売り場からありったけのクリスマスケーキのカタログを持ってきてどれにしようか悩む私に、恋人は「ガルガンチュアのケーキなら6000円出しても惜しくない」と言う。
ああ、そうね。あなた達が結婚式を挙げた、帝国ホテルのケーキ屋ね。ケーキカットのケーキすら、生クリームで素晴らしく美味しいウェディングケーキを作ってくれた、ガルガンチュアね。


男の鈍感さというものに心底驚く。私の恋人はどちらかというと気の利く優しい人だけど、それでもときどきその鈍感に、気が遠くなる。



どうやら恋人とその娘と私の3人で過ごさねばならない週末が、私の鬼門。それを乗りこえればウィークデーは順風満帆です。
スポーツジムで泳いだ後の爽快な疲労感の体をビールが心地よく満たす午後11時。恋人とダウンライトの下で他愛ないおしゃべり。郵便物に混じっていたミキモトのダイレクトメールの可愛い可愛いティアラを眺め、それに合わせるピアスをご機嫌で選んでいた私に恋人がぽつり。「奥さんも結婚式でつける真珠を必死で選んでたよ」。

全く。もう。想像を絶する鈍感な男。
これはもう、怒る以前の問題だと思うし、ここで怒るのはあまりにも大人げない、と思う。
おそらく、彼にとってはもう、過去のことなのだろう。
動かざる事実。過去に愛した女性との思い出。今は私を心から、愛してくれているのだろう。そこに何の隠し立ても偽りも必要ないんだろう。
でも。

だからといってそんな思い出話を普通にされたらかなわないわ。私に必要なのは、嘘でもいいから、私が世界中の誰よりも、一番愛されているという確信。
だって私の目の前には、いつでも、生きた証がいるもの。

私は突然無口になって、飲んでいたワイングラスを食器洗浄機につっこんでスイッチを押して、ベッドに入る。
遅れて恋人がやってくる。
無言で私を抱きしめる。
「不機嫌な理由を探ってる?」訊ねると恋人はうなだれて言う。
「ごめんね。本当に俺ってバカだね」。

その言葉を聞いて安堵して、私の瞳からは涙がぼろぼろとでてくる。
涙腺は完璧にゆるんでいる。
涙腺を、締める手術をしなくちゃ。


絶望的な前提のある私たち。私が常に強者でなくてはならないのは、始まったときからいつだって絶対的に私の方が弱者なの。
私の願いは絶対に、永遠に、叶わないのよ。



恋にはそれぞれに、障害があって、今までも幾度となく、涙を流してきた。
この恋は、こんな風にしか乗り越えていけないのかな。



朝、なかなか起きないその子を恋人は起こす。
時間割の準備をして、宿題をやらせ、着替えさせて送り出す。
私は朝ご飯の片づけをしながらぼんやりとその様子を見つめる。


今日はものすごく良い天気。
自転車を漕いでいると真っ青な空から木の葉が後から後からふってきて、それが金色に輝いてとても美しい。


駅のホームで電車を待つ彼の耳元に、顔を近づけて言う。



やっぱり、ガルガンチュアのケーキはいらない。


その人は、ちょっと驚いて笑って「じゃあどうするの?」と訊ねる。
私は続ける。
「だって、またあなたの鈍感なひとことで私は不機嫌になるかもしれないでしょ?危険要素はちょっとでも取りのぞいといた方がいいじゃない」。

その言葉に彼は顔を、くしゃっとさせて、私の肩を抱き寄せる。

私はその人の耳元で言う。

「だから、もっと美味しいケーキを探して」


そう。もっと、もっと美味しいケーキを探して。