探しモノ

ロフトにノートを買いに行ったら夥しい種類のノートが陳列されていた。上から下までノート。ノート。ノート。陳列棚を廻った裏側にもノート。くらくらする。この中からお気に入りのひとつを選ぶなんて無理。違うのは、表面の写真だけで、厚さも罫線の幅も値段も一緒。この似たり寄ったりの写真のなかから、心に来るものを探すなんて。


その美少年は私に、何を信じるか、と訊いた。


「何を信じるか?」
「そう、君が信じるもの。何でもいいよ」


言葉、は信じない。
神様、も信じない。
砂糖、はときに苦いことがある。
太陽、は害になるときもある。
種、は芽がでないときもある。
私の恋の情熱、も信じられない。
もちろん、目の前のその人だって。


目を閉じる。
何かを思うとき、私は視界を閉ざす。視力は不確かで邪魔。混乱をもたらすだけ。だけど真っ暗闇の中にも、何も見えない。どんなちっぽけな光すら見えない。私は何を信じてるの?


その美少年、つまり若き芸術家は、難解な本の前に絶望する私に向かって自分の作品を見せてくれるという。私はアパートの呼出鈴を鳴らす。出てきた彼は私に目隠しをする。視界を奪われた私の手をとって、彼はある物体の前に連れて行く。そして私の手をその物体に導く。そして言う。触れて、感じるままに言って。


それは、ほのかに冷たくて、滑らかな石。指先でなぞると、ごくごく小さな穴を感じる。ざらつく、というほどではない。「これは、人?」訊ねるけど返答はない。


冷たいけど、心地よく冷たい。まず私は答える。
おそらく顔のようなものに触れる。頬のようなものはふっくらとして、唇のようなものは両端が少し上に上がっているように思う。
微笑んでいるのかしら?
だけどあるべき位置に、目も鼻も、ない。肩のようなものを通過し、胸の膨らみのようなものに触れる。だけど左の胸はなく、そこは空洞になっている。私は、腕をすっぽりそこに入れてその女性の向こうに何があるか探す。そこは無。なにもない。
なんて悲しいの。
手を下へ。ちょうど私の子宮と同じくらいの高さのところから、質感が変わる。もっと滑らかな、柔らかなもの。石?粘土?そこは無数の襞がある。ベルニーニの彫刻を思い出す。
洋服の襞?内臓?
その波をずっとなぞっていく。私は、大海に泳いでいるような気分になる。ふいに、とがったものにあたる。それは、三角で、まるでジョーズヒレのように思う。
ここは、危険な海。
大海の裏に廻ると、ジョーズの群れが現れた。無数のヒレ。なぞっていくうちに、分かる。
そうか、山脈なのね。
遙か上空から、眼下の山々を見下ろすよう。再び、指先を上に。大きく付きだしたものは、たぶん羽根。
大きな鳥。鳥が山を見下ろしていた。
だけど羽根は一枚で、もう一枚の羽根のあるべき場所は、空洞。
これじゃ、飛べないわ。
腕を探すけど、そこにはなにもない。私は、腕があるべき位置をなでる。奇妙なほど、すべすべとしている。
背後から、腕を廻して、もう一度、顔らしきものに触れる。相変わらず、目も鼻もない。
それでも私はこれが、女性の微笑んでいる顔だと思う。
頬にあるでこぼこは、涙?
ふいに、これは木かもしれないと思う。古い古い大木。歴史を積み重ねた、力強い木。木のうろでは鳥が休む。ほら、枝がある。しっかりと伸びた枝に指を這わせる。それはまっすぐで強い意志をもつように思う。しっかりと上方に向かって生きようとしているように思う。その先端で、 5本の分岐に出会う。指?

そこで、温かなものが私の手を包む。彼の手。全神経を集中させていた私の指先は冷え切っている。一瞬、温度の違いが石か人を決定づけるものなのか、認識できない。まだ石の続きのように思う。
感想を言わなくては、と思ったところで、彼は言う。ゴール。


体全体が、空っぽになった。まるで私の左胸にも、空洞ができたよう。身体の内側が凍って、何かで叩くとガラガラと崩れ落ちてしまいそう。


心を開いて見ること。


彼は言う。
『心を開いて見ること』
私は感じたことを思い出す。
柔らかに泣く女性。空虚な心。大海原。危険。連なる山脈。俯瞰する大きな鳥の羽ばたき。大地に根ざした大木。そして微笑む女性。張り出した枝は、天に向かって伸びていた。
自由に、感じた。私の指と心だけで。解放された私は、思うままに自由に旅した。
これでいいの?こんな陳腐な私の感覚で?


昔、あの人は私に言った。「君は不真面目だ。何も考えようとしない」。
違うのよ。その術を、探しているの。自分の目でものを見る方法を。考える方法を。
だから、その視点を教えてくれる人に惹かれる。一緒にいるときは、少なくともその視点に近づけるのではないかと思う。或いは今日のように、旅をさせてくれたり。

そういえば、ずっとずっと昔、まだあの人との恋が始まったばかりの頃、あの人に宛てたラブレターの一句にこう書いた。
「私があなたを好きな理由は、私が探しているモノの在り処を示すヒントをくれそうだから」
それを思い出して思わず笑った。昔から、そうなのだ私は。
探しているモノって、なんなのだろう?
それは、私の中にあるのか。あなたの中にあるのか。世界のどこかにあるのか。
まるでコンセントを持って走ってるみたいね。差し込むところを探してるのよ。差し込めば、灯りがついて、世界を照らして、明るいわ、温かいわ。はやく、差し込みたいのよ。

だけど。
とりあえず、信じるものがあった。今、私の手を温めているあなたの手。今この瞬間、確かに私の心も体も感じる。
これだけは、信じていいのね?