オレンジ

Chartreuse2005-04-16

おそらく、今までの人生で一番、初めてのデートでの移動距離が長かった。そしてこの一年で一番多くの人と話した夜だった。まずは恵比寿で軽くシェリーとパルマ産のハムを食べたあと、六本木のギャラリーでコロナとワインを飲みながら、アコースティックギターを聴く。その日の主役は世界を自由に駆けめぐるカメラマン。肩までの髪を一つにまとめ、チェックのシャツにあせたデニム、肩にはギター、白い帽子をかぶる現代のカウボーイ。底抜けに楽観的でパワフルで、初対面の私を笑顔で抱き締め、額にキスをする。その人の写真は、何のひねりも奇をてらったものでもないが、自由な大地が見せる一瞬を捉えたストレートな美しさがあった。純粋に、すごいなあ、と思う。「美しい景色が見れればそれでいい」。私はその力強く確かな腕の中で、理論や理屈や思想なんて吹き飛ばして、淡い空に続く砂漠の風紋や、一瞬の後に激しい雨となる荒野に立ち上る真っ黒な雲を、この人の湖のようなクマのぬいぐるみのような真っ黒な瞳と一緒に見る自分を想ったりする。本当に、様々な人種がいるのだ東京には。生きることに深刻になりがちな、私を笑い飛ばして。
その後、三軒茶屋でラムを数杯飲む。調子に乗って第三京浜で横浜までドライブ。どこかの雑居ビルの 3階の焼酎バーに行く。盛り上がってバーテンダーさんが 1995年のウンダーベルグのコレクションボックスをくれる。ものすごくはしゃぐ。店をでると曇りの明るい朝で、いやに世界は白かった。横浜駅まで送ってもらい 6時前の東横線に乗る。椅子に座ったとたん意識喪失。気がつくと再び横浜駅。 時計を見ると 7時半。やれやれ。家に帰れるのは何時のことになるやら。

9時過ぎに帰宅してシャワーを浴びて、昨夜 2時にはいっていた携帯メールの返事の結論がでた。電話する。「おはよう。今日、何時?」。
10時半の表参道。街路樹は新鮮な緑が高く揺れ、あまりにも表参道らしいカフェで白いシャツにペーパーバックを読むその人を見つけて店に入る。肩を軽く叩く。隣に座る。彼は「おはよう」と言う。私も「おはよう」と言う。 1時間半の睡眠で、体の表面が痛い。サングラスをとるのは怖い。念入りに、コンシーラーでクマを隠したつもりだけど、寝不足の肌は手を加えれば加えるほどアラが目立つ。この明るい健康的な春の陽射しは暴力的だと思う。オレンジジュースを頼む。氷は別に持ってきてもらう。私の平均的なランチ一食分より高価な、絞りたてのオレンジジュースは生ジュース特有の水っぽさと舌に残る果肉のざらつきがある。だんだんと溶けていく氷で台無しにしたくない。カラフェからグラスにやや濁ったオレンジジュースを注いで一口飲んで、小さめの氷を一つ選んでグラスに落とす。その人はそんな私の行動を、黙って見ている。そして言う。「元気そうだね」。
会うのはどのくらいぶりかしら。普段は西洋の農業国家にいるからばったり道ばたで逢うこともない。相変わらずHOPE。煙を吐き出す瞬間に少しだけ頭を反らせる仕草は変わらない。どちらかと言うと左利きのその人が、灰皿の上で軽く弾ませる手の薬指には銀色の指輪。オープンエアのテラスのテーブルには、風にそよいで落下した、ほんのり紫色を帯びた固い小さな花芽のようなものがたくさん落ちている。次のちょっとした風でまたいくつかの花芽が舞って、私のオレンジジュースのグラスに落ちる。その行方を、私たちは見つめるけど何も言わない。
他愛のない話をする。本の話。音楽の話。最近の仕事の話。アパートの階下の住人はインド系の富豪らしく、ホームパーティーの度に暖炉から、激しい香料の香りとインディアンポップスが轟いてきてまいっている、だとか。
その後、あまりのも気持ちの良い昼前の新緑を散歩して、焼きたてのパンの美味しいイタリアンの店でランチを食べる。彼はワインを飲む。一杯だけ付き合って後はひたすら水を飲む。
切り出すタイミングが難しくて、でも避けているように思われるのも気まずくて、なるべく自然に言ってみる。今日のメイントピックを。
「そういえば、子供が生まれたんじゃない?」。全く何の動揺も見せず、彼は言う。「うん。 2週間前に」。
2週間前。
「どっち?」「女の子」「可愛くてしょうがないね」「まあね」。
シルバーのフレームに黄色の文字盤を、大きな矢印が秒を刻む彼の腕時計を見ながら、この話題がまだ 30秒しか続いていないことを知る。その次の沈黙の方が圧倒的に長い。
違う。このかすかな嫌悪は、子供が生まれたことに対して、もっともっともっと、全身全霊で喜んで欲しいから。見当違いでも私になんとなく悪いと思いつつも、その幸せを隠しきれなさそうにして。子供の誕生を、些細な出来事のようにしないで。今日の面会は、あなたがその喜びを報告するためものなのよ。そうでなければ、ただの情事のような色を帯びてしまうじゃない。それとも、私の存在はあなたにとってはとるにたらないことなの。自分の人生の喜びを、報告するまでもないような。それなら、それでいい。だけど、遠く海を隔てた街の空の下、生まれたばかりの赤ちゃんを胸に抱く、あなたの奥さんの気持ちは、どうなるの?


全く、どいつも、こいつも。
どうしてこうなのかしら。
溜息をつく。
その溜息は、たいてい今までどんな男といるときも必ずついてしまう。
そしてこの溜息の意味が理解されたことはない。


まだ早い午後に別れる。別れ際にあの人は、ごく自然に私を引き寄せる。ほんの一瞬の抱擁。抱擁というより、握手の拡大版のよう。その肩におでこをつけようかと思ったけど、白いシャツに塗ったばかりのグロスがつくのをためらった。顔を少しだけ背けると、緑の木々の隙間はあまりにも眩しい太陽の光で、目を閉ざしても残光がまぶたの裏に残る。懐かしい、ベルガモットの匂い。そして32歳の匂い。ふと、美少年は、この人より 10年若いのだ、と思う。
かつて、同じようにしてシャツに見事にオレンジ色の口紅をつけた。そのしるしをつけたまま、レストランに行き、バーに行って、14時間も過ごした。
あんなに鮮やかなオレンジ色の口紅は、今どこを探しても手に入らないだろう。鮮やかなラメ入りのルージュが、流行始めた頃だった。太陽のようなひまわりのような、自信に満ちたオレンジだった。
このまま、ランコムに探しに行こうかしら。もっともっと、手がつけられなくなるくらい生命に満ちあふれた、オレンジの口紅が欲しいのよ。