林檎

私の愛した人はみんなフランスに吸い込まれていく。そのうち、「フランスモトカレ巡りの旅」をするのが私の夢。ふわーぁ。


丘の下で寿司を食べる。特上寿司はものすごくお買い得だが、相変わらず玉子とネギトロ巻きは余分だと思う。満たされた胃袋で、すっかり暮れた丘を登る。桜の花びらが降りしきる夜の丘。上の方では、未だに迷惑を考えない若者たちがもってきたラジカセから大音量で 80年代ロックが流れている。夜桜の下で酔っぱらう人々の騒ぎ声は、どこか遠くで轟く戦争の大砲の音のよう。私は、できるなら、その喧噪を避けて、家に帰りたいと思う。右腕に抱えているのは、図書館で借りたドゥルーズの「感覚の論理」。先生を失った私は、そうか私の先生の先生から直接学べばいいじゃん、と思った。それでこんな分厚い本を借りる。画家フランシス・ベーコンについて学ぶのだ。ヨーロッパ旅行の計画をたてては修正して、行きたくなくなったり、ものすごく楽しみになったりする。今は、透明な林檎が、心に宿っていて、これはとても傷つきやすいし壊れやすい。酔っぱらいの吐瀉物や醜態で、簡単に砕け散ってしまいそう。
静謐を願う。聞こえるのは、爛熟の桜の枝が重そうに擦れ合う音。見えるのは、闇に舞う白い花びら。着地を拒むように風に舞い、私の足下で渦を巻く。
一人でいれば、今宵この丘では、誰もがきっと美しい。
唇に人差し指をあてて。
こういうとき、私は心を閉ざしているのか、開いているのか、よくわからなくなる。でも、完璧に、一人きりだと思う。私の心と体があって、それが全て。他人が私の心に入り込むなんて。それが痛みをもたらすなんて。


初めて多摩モノレールに乗った。高いところをゆっくりゆっくり走る。強風のときはちょっと怖そう。東京もここまでくれば視界は広い。眼下にサイゼリア。家族連れが、楽しそうにドアの向こうに消えていく。夕暮れのアパートで、シャンパンを飲む。どんどん薄暗くなっていく。灯りを点さずひたすら飲んだ。彼女の彼氏は、誰が見ても、「いい人」というようなタイプの人だ。でも私は昔から、彼を優しいとは決して思わなかった。彼は「彼女のために」行動するわけじゃない。「こうすることが正しいと思うから」行動するのだ。それが昔から私は好きになれなくて、だけど「正しい」行動の前に感情論は無意味。私には結局他人事だから口にも出さなかったが、彼女は昨日それを充分知っていることを告白した。その「正しい行動」で彼女を傷つけたことも数多い。そういう絶望を抱えて付き合う彼女をみて、私は思わず泣きそうになる。その絶望は、私にはたぶん乗り越えられない。私のかつての恋人は決して「親切な人」ではなかったし、私は常に残酷で意地悪な人だと思ってはいたが、優しくないとは思わなかった。私は心の自由を得た。窮屈に思うことはなかった。それでもそんな精神論よりも、大切なのは、現実を積み上げていくこと。一緒にごはんをつくって、食べて。どっちがゴミを出すの?誕生日には、絶対にホールケーキを買ってきてくれなきゃだめなの。

ほのかに酔っぱらって、日付の変わった帰り道、滅多にかけない電話を、私から美少年にしてみた。
数回のコールの後、留守電になる。
だから、ほら。ばか。
求めたら、ダメなのよ。求めるものは、ないのよ。
分かっていたはずでしょう?
はやく、逃げ出さないと。はやく、帰らないと。

完璧に、一人じゃないときは心は閉ざしてしまわないと。
もう何も、私の、心に触れてこないで。

感覚の論理―画家フランシス・ベーコン論

感覚の論理―画家フランシス・ベーコン論