ヴェニス

Chartreuse2005-08-28

神様
あなたは一体何を、しでかすのでしょう?いつも私の人生に、とびきりのプレゼントを与えてはとんでもない後遺症を残す。
それでも、今日この日、あの瞬間を、私は死ぬ前の最後のカウントで思い出すと思う。
あなたの悪戯は、残りの人生で私が思い返すだけで幸せに満たされるの充分なほど。

重い荷物を引っ張って、汗まみれのぼろぼろの姿でホテルのフロントで名前を告げると、今時銀縁眼鏡にタキシードのマネージャーが言う。「お連れの方はテラスでお待ちです」。

幽霊を探すような気持ちで数段低くなったテラスへ降りて、いるはずもない連れの姿を見つける。あの人は、紅いソーダを飲んでいる。たぶんカンパリかもしれない。私の姿を認め、微笑む。それはそれは端正に、一部の無駄もない振る舞いで立ち上がり、あの頃のように私の乱れた髪の毛をかきあげながら、相変わらず低く通る声で言う。
「ようこそヴェニスへ」。

昼下がりの水の街を、あてどなく歩き回って、小さなレストランに入って、魚介のパスタを食べ、ゴンドラに乗った。寝ころぶあの人の胸に、耳をつけて、目を閉じる。
これは夢じゃない。もし夢ならば、悪夢。私はこの吐きそうなほどの幸せから目覚められない。
永久に、この完璧な、ヴェニスの二日間を、思い出しては再びあの夢の中に戻りたいと、切望しながら生きるのだろう。


いつもの時間に、日本で私を待つ恋人に、電話をかける。元気?今日は何したの?夕ご飯何食べたの?私は元気、ヴェニスは暑いよ、イカスミのパスタを食べたの、日本で一時イカスミのパスタってはやったけど今どこにいっちゃったのかしらね?逢いたいよ、じゃあねと言って切る。なんの嘘もない。

どこに嘘があるの?
裏切りがあるの?

交代で、その人がパリにいる妻と子供に電話をかけている間、私は買ってもらったピスタチオとレモンのジェラードを食べながら、ぼんやりと思う。

恋人と、恋人の子供と、私と、私の子供の4人で暮らすことを。
なんて残酷な幻想。
私の優しい恋人は、その提案にひどく苦しむだろう。でも、私も無理なの。
あなたの子供と、あなたと私の子供を同時に抱える自信はない。
だけど、私は、私の子供が欲しいのよ。26歳になって、いや、あなたと付き合ってみて、初めて、強く子供が欲しいと思う。自分の子宮で育てたいと思う。
あなた以外なら、どんな精子でもかまわない。かつて愛した男なら、等しくもう同じかけらでしかないの。


陽が落ちてゴンドラがシルエットになる。
ソアベを飲みながら、小さな魚の揚げ物をつまむ。ベニスにはたぶん幸せなカップルしか訪れないんじゃないか。どのテーブルでも、カップルや家族が楽しそうに、微笑みあって食事をしている。私たちだって、負けず劣らず楽しそうだけど、でもたった二日間だたけの恋人だなんて、誰が思うだろう?
あの頃と変わらない。
いつも私たちは、こうだったわね。
私はあなたに心を語ったことはなかった。
欲望だけ。

お腹が空いたわ。
とびきり美味しいカクテルが飲みたい。
海が見たいわ。


淋しいとか、哀しいとか、思い遣ったりとか、優しい気持ちとか、そんなのなかったでしょう?



深夜、あがる体温を感じながら思い出す。
天現寺。あの人の元へ向かうつもりで、したたかによった私は陸橋を降りる。方向を見失う。頭上には、流れ星の代わりに緑と紫の光を放つトラックが流れ去る。不安になって携帯を耳に当てる。微かに向こうから聞こえるあの人の声は、騒音にかき消されて、私は携帯に向かって絶叫する。
でも、本当に絶叫した?
しなかった。しなかった。しなかった。



心のない、愛撫でも体はきちんと反応する。心と体は一体でないことに気がつく。

生きているうちに、あなたはあと何回、私のもとに訪れるのかしら。
あと何回、私たちは体をかわすのでしょうか。
やっぱり、そのたびに、私は無情の喜びを感じるのかしら。
だって、受け入れるも受け入れないも、いつだって私には、選択肢なんてなかった。
受け入れるしかないのが、私たちの恋でしょう?


樹氷のような肩に腕を回して力を込める。思う。
愛を知らない男。
愛を教えてしんぜよう。
それはあなたが軽んじた女たちが、幾度となく試みて、徒労に終わった作業かもしれない。
上がる息。耳元で「愛してる」と決まり文句。心は少しも動かない。
「私も」という返歌の代わりにに、私は言う。

「あなたの子供が欲しい」。



それは私がいつも口にした欲望のひとつ。だけどこれは最も恐ろしい欲望。そして現実の可能性を帯びた欲望。



この男には理解不能だろう。


愛し合う、私たちがこの先も愛し合っていくために、誰かの精子が必要だと思った私の狂気。
目先の愛のために、そんな犠牲をいとわない私の愛。


そして、思う。
だれか、教えてよ。私に。正しい愛し方を。



続けるにはひどくタフな精神力が必要だと思う。
少し気の毒になる。
私は思わず吹き出す。上の男も安堵して吹き出す。


再び快楽になる。
次はなんの後ろめたさもない快楽になる。
堕ちた男と女かもしれない。

私たち以外、だれも傷つけなければいいのよ。

ほら。刃物のような愛になる。


神様


とはいえ、私はあなたに感謝していて、私は様々な、愛の形をもっともっと知りたいと思うのです。
いつか、辿り着くと信じていて、今でもまだ過渡期です。

珍獣にも、ゴム風船にもハートの9にもなったけど、私はやっぱり私の名前で私の全てを愛してくれる人を求めてるのです。


チャオイタリア。
インスブルックに向かう列車で一人、深く深く、眠って疲労を取り戻す。
これほど深く眠るのは、本当に久しぶりで、起きたときにはすっかり元気になる。
日本は深夜2時だけど、土曜日の夜だもの。起きてるかもしれない。不慣れなオーストリアの電話から日本のあの人のダイヤルを押して、コール。コール。コール。
お願い。早くでて。