輪廻

昼過ぎ、甲州街道を、新宿を背に西に向かって歩く。新宿は雨。雨は矢のようにまっすぐアスファルトに突き刺さり、バラバラと激しい音を立てて弾け散る。進行方向の空は白く明るくて、濡れた路面や落下する雨粒や、はじけ飛ぶ水滴がきらきらと輝く。東に向かう人は白い光の中から現れる。眩しくて目を細めると、人影は逆光に浮かび幻のよう。太陽は驚くほど強力で、水たまりをすぐに水蒸気に還して天に押し戻すよう。そのはやる空気は私のスカートに捕まって、こすれ合う私の太ももにまとわりつく。


そうか。思い出した。これは体育の授業の、プールに入る前のシャワーだ。金属の粗野なシャワーから放出される水は、雑で荒くて不躾に体に降ってくる。その水滴の重さが充足感をもたらす。目を細めると、向こうに輝く水面。弾ける水音。歓声。水に濡れるのは好きだった。わざと傘を持たずにびしょぬれで、学校から帰ることもしばしばで、母は呆れながら笑って大きなタオルを渡してくれた。


向かうのは新宿のはずれにある高層ホテル。東京一高級なラブホテルだと、紀尾井町にあるホテルのフロアマネージャーの一人は言った。その閉鎖的なエントランスを抜けてエレベーターで41階へ。ドアが左右に割れると、光に満ちたアトリウムが広がる。ピラミッドのような三角の屋根は一面ガラス張りで、その向こうの空は、まるでエレベーターに乗っている間に雲を突き抜けてきたかのように、青い。音楽はない。聞き取れない人々の話声と、食器のぶつかる音がこだまする。ラウンジの入り口で名前を告げると、窓際の席で待つあの人のところに案内してくれた。今日はその人が、妻と生まれたばかりの子供のいる西洋の農業国に帰る日。あと数時間で、再び日本から消える。ついさっきまで逢うつもりはなかった。だけどランチのアポイントがキャンセルになり、ぽっかりと空いた時間はその人を意識しながらやり過ごすにはあまりに大きくて、留守電のメッセージを無視できなかった。


私は弱くて情けない女の象徴?


その人の飲んでいるグラスには黄金色の液体に満たされていて、細かな気泡がグラスの底から立ち上る。ビールにあるまじき美しさだ、と思う。彼は私にもその美しいものを、そして二人分のランチを注文する。


相変わらず、他愛もない話をする。おそらく、これから何回逢おうとも、何一つ変わらないだろう。だから、また逢うのか。それとももう二度と、逢わないのか。仄かに温かいパンをちぎって口に運ぶ。ここのパンは美味しくて、数年前にここでパンを食べ過ぎて、メインの子羊が食べられなくなって、それでももったいないから無理を言って夜食にと、部屋に運んでもらったら、チェックアウトのときにマネージャーが、お連れのパンのお好きなお嬢様に、と数種類の焼きたてのパンの入った紙袋をくれた。それはおそらく一生私の心に残るだろうけど、このホテルにも、あのマネージャーにも、もしかしたら目の前のこの人の記憶にすら、それは残っていないのかもしれない。


パリは好き?と訊ねると、ああ、と彼は答えた。自分の住む場所だから。
いつも、そうなのだこの人は。事実を淡々と受け入れて、そこにきちんと生きている。東京に、私と居た日は完璧に過去のこと。憧れたり、空廻ったり、嘆き苦しむ私をよそに、この人は、やるべきことをきちんとこなしてそこにいる。風のようだし、水のようだ。いつもどこかにあるけれど、決して掴んで確かめることはできない。


彼の背後のピラミッドの屋根の格子にふと、マルセル・デュシャンの「なりたての未亡人」を思い出した。「French Window」をもじって「Fresh Widow」。笑えないわ。


ホワイトソースに絡まった小海老を数回噛んで飲み込むと、思いがけず涙が、あとからあとから、あとから、あとからあとからこぼれてきて、頬を伝って顎に達し、テーブルの上にぽたぽたと滴った。それはとても静かな涙で、私は、たぶん彼も、始めそれが涙だとわからなかった。心は引き裂かれていない。ただ、全体的にこの状態が、哀しいだけ。ここでこうして向かい合えることに小さな幸福を感じる自分や、出会って別れてまた逢って、そして別れていくこと。


私の涙は知らぬ間にできた傷口から溢れる血のように、静かに静かに流れていく。
クマリ。
ふと思い出した。あれは、どこの神様だったか。たしか、カトゥマンズ辺りの生き神だ。いくつかの条件をクリアして選ばれた幼い少女は、初めて血液を流すまで、神として崇められる。擦り傷や切り傷による出血でも資格は失うが、それは時間の問題。つまり初潮。ああ、男の人は、一生血を流さずに生きていくことも可能なのだな、とぼんやり思う。おそらく血を流すということは、男と女では全く違うのだろう。


涙の訳をその人は問わない。同情も動揺の気配もない。安心して、私は泣き続ける。血液が、鼻の奥と瞼に集まって、熱い。溢れる涙がほてった頬に心地よいなあと思う。

私は、この人の妻が嫌い。その立場とか境遇とかが嫌いなのではなくて、人間として嫌い。意地悪で、嫉妬深く、雌狐のよう。だけど、とても美人だ。どうしてあの女と私を、仮にも同じように愛せたのかが純粋に不思議で、いつか訊いてみたいと思っていたのだけど、その愚かな想いは涙とともに流れ去った。どうでもいいわ。あなたが大切にするものを手に入れただけで、充分。



成田行きのリムジンバスに乗る彼を見送って、私は再び新宿方向に向けて歩く。雨はすっかり上がって、世界は明るい日差しに満ち溢れている。木々にはまだたっぷり雨粒が含まれていて、時折の風に、まるで雨のように水滴が降ってくる。その水滴にまみれて、一人心がはしゃぐ。いつかあの人は、したたかに酔っぱらって私に、来世では君と人生が触れあうかもしれない、と言った。若い私はその言葉に笑ってから拗ねたけど、今は、そうね。その言葉は、信じる。

だけど、私は輪廻転生を信じないの。あなたが来世をぼんやりと夢見る傍らで、私は今この一瞬の軌道の交わりを、体に刻む。一度きりのこの人生で、何回でも出逢って、別れよう。直近の恋人は「あの辛い恋の後、俺は君も含め、全てに情熱を傾けなくなった」と言ったけど、そんな弱虫の腰抜けですら、私は全力で愛することができる。次に出逢う人は、私を深く愛してくれるだろうし、私も深く愛することができるだろうと、未だに信じている。


「来世では、違う人に出逢って」


今度逢ったらそう言おう。でもたぶん、来世の夢のことすら、あの人は忘れてるんだろうな、と笑って、馬鹿に真剣だった恋について、まあよかろう、とほぼ満足して、おお化粧を直さなければと思って化粧室に入ったら、マスカラが落ちて目の回りはパンダのように真っ黒で、次逢ったときあの人は、おかしそうに言うのだろう。
それにしても、あのときの、君の顔ときたら。