確信

毎日違う男とセガフレード・ザネッティでビールを飲んでいるんじゃないかと思う。


昨日は仕事を終えたあと(強調しておく)、ブックファーストに行く。師が「冒頭でやられた」と言った多和田葉子の「ゴットハルト鉄道」。多和田葉子は私も好きで、「旅をする裸の眼」とか「変身のためのオピウム」とか夢中で読んだなあ。で、講談社文芸文庫のコーナー。我が目を疑う文庫本の価格設定がすてき。先日買った「白鯨」の上巻1995円。あはは。さすがに高くねえ?「ゴットハルト」もここの新刊。手に取り冒頭を読んで私も、やられた。

向かいのセガフレードに寄り、ビールと魚介のマリネ。買ったばかりの本に没頭する。すごい、この言葉の感覚。
いきなり「ここいい?」と男の声がした。本の世界にいた私は3秒くらいその人が認識できない。いつもは下北沢のバーで会ううれないダンサー。薄暗い照明の中のその人と、この下品に明るい店内では人は変わる。この人とは数週間ぶり。下北沢のバー以外では変な場所で偶然出会う。前回の偶然はクリスマス前の中央線の中。私は海外から届いたクリスマスカードを、何回も、何回も読み返して、喜びと切なさに浸りきっていた。そのときも、いきなり「やあ」と声をかけられたけど、私はこちら側にいなかったからその人を認識するまでにかなりの時間がかかってしまった。
その人は、エスプレッソとアマレットを持ってやってくる。他愛もない話をする。ここにはよく来るのだと言う。そして、向こうのカウンターに座っている、どうみても男顔のミニスカートで網タイツの人の性別が、いつも気になっているのだという。その人を遠目で見ながら、思う。こんなものなのだろう。人と人の距離は。恋人でも顔見知りでも他人でも、その間隔はいつでもどこでも等しいような気がする。縮めたい、と思うか思わないかというだけで。だから、私はいつだって、愛している人に対して哀しいのだろう。



気持ちよく酔えるビール一杯と、中途半端に醒めるビール一杯があって、昨日は後者だった。どこかに寄ってもう一杯飲もうかと思ったが、またまた偶然誰かに出会うのはたまらない。昨日はプチ給料日。少しだけ良いワインを一本買って帰ることにする。明るくてパワフルで暖かいワインが飲みたい。選んだのは「DOMAINE DE VILLEMAJOU」。南フランスのもので、最近好きなカリニャン主体でシラーと、グルナッシュ、ムールヴェードルをブレンド。作り手はラグビーのフランス代表選手とかで、最近家業のワイン造りに戻ってきたらしい。よくわからないけど、なんだか失神してもやかんの水をかけられたら生き返るみたいな、そんな陽気そうな感じじゃない?

帰宅してシャワーを浴びてワインを開けたのは日付の変わる直前のこと。「何してるの?」と言う美少年からの電話に「南仏のラグビー選手とワインを」と間違った説明をしてしまい、興味津々の彼がやってきたとき、私はドゥルーズの「感覚の論理」につっぷしていた。読んでも読んでもなんのことだかさっぱりで、この四角い分厚い本に両手を重ね、額をつけていれば、この本の内容が私の脳に直接流れ込んでこないかなあ、と思う。改めて「何してるの?」と問う彼に説明が面倒で、「ちょっと酔った」と答えると、彼は「ベーコンが好きなの?」と言う。実際に私は哲学者のフランシス・ベーコンと画家のフランシス・ベーコンの存在の違いに最近気づいた無知な女。「まあね」とかつての恋人にいつも指摘されていた、相変わらずの知ったかぶりを発揮すると、彼はベーコンについての講義を始める。ベラスケスとの関係や、頭部への執着のことなど。そして自分も少なからず影響を受けた、と。言葉がすべてだったかつての恋人と異なり、この人は普段言葉をあまり用いない。感情を伝えることに、言葉よりも感覚で訴えることが得意な人。その人がこんなにも言葉を発するのは初めてで驚いた。そして、やられた、と思った。肉体や、感覚は、とても重要だけど、最終的に、決定的に私の細胞の隙間を埋めていくのは、言葉。言葉が、確かにする。彼の言葉を聞いていて、私は皮膚がびりびりして髪の毛が、逆立つのじゃないかと思って毛先をなでつける。とっくに終わったジム・ホールにも気がつかなかった。外は静かな雨の音。明日は朝から晴れると言う。なんて、理想的な世界なのかしら、と思う。

ゴットハルト鉄道 (講談社文芸文庫)

ゴットハルト鉄道 (講談社文芸文庫)

  



ジム・ホール&パット・メセニー

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