Chartreuse2006-08-27

あまりに辛いことがあったので、旅行記の続きは中止です。
でもまあ書き始めた手前責任をとって(?)簡単に言うと、その後の阿蘇は晴れて眺めが良く、湯布院のお湯はすばらしく、別府で地獄巡りをしたら死ぬほど暑くて、巡ることそのものが地獄だったということ。別府の地獄は8カ所あったのですが、それぞれ経営が違うのか、それぞれに個性的でした。いきなりワニとかカバとかいてびっくり。ワニとかカバとかいうのは、見たくない気分のときにいきなりそこにいても、あんましありがたくないものだと思った。



さて、私はあまりに辛いことがあり、その辛いことをくどくど書いていると死んでしまいそうなので割愛しますが、とにかく夕方はかつてよくやっていたようにチャリにのってあてどなくペダルをこぎ、ふと気がつくと6年前に住んでいた家の近くまでやってきていて、東京というのは広いように見えて意外に狭いのだ。といっても私は一心不乱に1時間も漕いでいてとっくに区を超えていたわけだけど、とにかくあたりは懐かしくて、そのころの生活を思い出してみると、私は冷蔵庫をもたない不思議な男の子と1ヶ月ばかりのロマンスを楽しんでいた。とはいえ彼とはプラトニックな関係で終わり、またそれが思い出にハナを添えている。
彼は冷蔵庫をもたない代わりにシンセサイザーを3台持っていた。22歳だった私たちだけど、彼は3つ下のゆきちゃんという女の子に恋をしていて、それがまだ恋だという感情にすら気がついていない少年な感じの男の子で(実際童貞だったのだけど)、ゆきちゃんに対しては緊張してぎこちなかった彼も特別な感情のない私にはフランクに接しており、特に彼に恋心を抱いていなかった私は、そういう私たちの微妙な関係を最大限に楽しんでいた。ビールを飲みながら夜中に公園でボンゴをたたいた。大仏のいる公園で。セックスの絡まない男女の関係はかくもすばらしいものか、と22歳の私は思い、そのあたりから無駄にセックスはしないようにしようと誓ったものです(誓いの半分くらいは守れた)。
あの頃は、確かすごく好きだった人に駅のホームで振られた直後で、はっきり言ってつきあってなかったのだからそんなに落ち込むこともないのに、その頃はつきあっていない人に振られるというのは自分のすべての否定のように思えて、私は2ヶ月閉じこもって、携帯の電源も、電話のコードも引き抜き、大学にも行かず、ひたすら本と映画と音楽を貪った。あのとき100冊くらい、本を読んだ。それは全く体系的でなく、ただ単に動物のように読んでいたので、あの時の読書が身になっているとは考えがたい。その1年半後に、あの人に出会い、本の読み方を教わるまでは。だけど私が全身全霊で本を求めた時だ。もっとも純粋に、私の体のすべてが、本を欲した時だ。
そんな極地的状態から立ち直ったばっかりだったので、私の視界は妙にすべてが透明で、あの頃は霞む春ですら秋のようにすべてが、澄んで見えた。その中で、プラトニックな、恋とも言えない、まあ友情だろうな、そんな関係があった。

戻りたい、とは思わない。あの空腹か満腹かもわからない孤独に、戻りたいなんて思わない。若い肉体だからこそ耐えれた孤独だった。通過儀礼のようなものだ。あんな孤独に戻れないと知っているから、人は誰かとうまくやっていく術を身につけていくのではないか。

帰り道はいつだって行きよりも早く感じる。家に戻ったときはすっかり日が暮れて体が冷え切っている。家の中は暖かくて涙がでそうになるけど、同時に激しい嫌悪がある。
寝室で「トーク・トゥー・ハー」というアルモドバル監督の変態映画を見ていたら(ほめ言葉です)、ふと、遺書を書こうと思った。いきなり事故で死んでしまったら、いや死んでしまえるならまだいいけれど、脳死状態とか植物状態(この言い回しは現在でも認められているのだろうか。だめだったらごめんなさい)になってしまったら、希望が叶えられるか否かは別として、私の意志を誰かに伝えておきたい。

それで、結局、(法的になんの効力もないらしい)遺書をパソコンでかたかたと打っていて、ふと、誰に向けて打っているのか、わからなくなる。両親ではない。同居人でもない。かつてのわがままな恋人たちのうちの誰かかと思ったけど、そうでもない。むしろ、彼らには私の死なんて知って欲しくない。私の意志を一番汲んでくれそうな、誰だろう。思い当たったのは、私の姉で、全く。血の絆というのは、あまりに濃い。
後は頼んだよ、姉。
私はあまりに疲れ切って今は眠りたくもないけれど、今度眠ったらもう起きたくないと思う。もし万が一再び起きることがなかったら、後は、頼んだよ、姉。