教えてドラキュラ

Chartreuse2005-06-30

6歳年上で、稀に見ぬ数学のセンスを持ち、『東京情緒食堂』の表紙の男はその人かと一瞬思うくらいの容姿と、ぴかぴかのフェラーリと、誰もがふり返るような美貌とスタイルと生まれながらのお父様の財産をもつ彼女を持っていたその人は、そのマンションのリビングで私の淹れた最後のコーヒーを片手で口に運びつつ、2年間の付き合いにおいてはじめて静かに涙を流した。
一方私の涙は、その1週間前に枯れ果てていて、もちろん体の反応として、液体は瞳から溢れたけれどそれはまるで精製水のように無機質で透明な涙。一瞬視界を歪めて床に転がり落ちるだけで、熱くも冷たくもなかった。その妙にクリアーな世界で、テーブルを隔てて涙を流すその人との距離は、異様に遠く感じて、私がいくら手を伸ばしても、決して届かない気がした。そのときの私は、その人の涙の理由を、あのギリシャの言葉で知恵という名前をもつ、気高く美しい白猫に友達がいなくなったことを嘆いているのだと解釈した。


例えば二日間、ずっと一緒にいると、別れた後の数時間は地獄のよう。眠って起きても6時間しかたっていない。別れてから9時間。仕事に行く。ランチをとる。再び仕事をする。ふと時計を見る。別れてから 24時間。2週間、顔を見ずに過ごしたときの精神状態を思い出そうとする。だめだわわかんない。

助けてよ、ドラキュラ。

私はドラキュラの妻。だけどドラキュラは生きた人間の血が必要で、既に妻となった私は同士であるが、狩猟の対象じゃない。私はその立場に安堵するし、空しくも思う。そのドラキュラ伯爵は言う。
「お前は一度でも俺の気持ちを考えたことがあるか」


絶句する。ドラキュラに、私は、心の、肉体の、血液全てを捧げたけれど、ドラキュラの気持ちを考えたことがあったか?
いつだって、終止符を打ったのは私。
私は被害者として生きてきた。3年前のあの日、午後のマンションで、涙を流したあの人の、気持ちを考えたか?



だけど、理解をしろだって?一度ならず、デートの約束をすっぽかして3日間放置したあなたを?完璧な彼女を持ちながら、その隙間を埋めるように私と付き合っていたあなたを?苦しみのすべてを、私におしつけたあなたたちを?


別れてから 56時間ぶりに、その美少年からメールが入る。相変わらず「お腹空いたよ」。
彼は空腹。私も空腹。だけど、食後の二人は全く違う。彼は一時の満腹に満たされている。一方私は、食べたくもない食物で胃袋が圧迫されて不快。吐き気と胃もたれを抑えて微笑む。



57時間ぶりの彼は、暑い雲の立ちこめた重くだるい渋谷の大気に軽やかに立っている。
私は押しつぶされそうよ。
その人の所望する店は渋谷で創業半世紀近いカレー屋。岡山でブレイク中のエビめしの元祖の店。一人なら絶対行かないわね。いや、誰かに誘われても絶対に行かなかった。あなたと以外は。カシミールカレーと欧風カレー大盛りをぺろりと平らげ、5分の2でもてあます私のピラフに手を伸ばす、彼に言ってみようかと思う。
「愛してる」
もしくは
「さよなら」


ドラキュラの声が聞こえる。
「君は俺の気持ちを考えたことがあったか」。


だってね。
私はもてない女で、私が何をしようが、あなたたち身勝手な男には些細なことでしょう?

ドラキュラは言う。「お前は本当に、みかけだけでなく性格もブスだ」


午後のコーヒーの向こうで流した、あの人の涙を思う。あの涙は、猫のためじゃなかったのかしら。


空腹が満たされた美少年は、仕事に戻らなきゃと背を向けた私のまとめた髪の毛を、ひっぱって言う。
「今から船に乗って大島に行こうよ」。



行こう、と思う。
少なくともその船に乗っている間は、その人は私の世界のすべて。
仕事なんて、その一瞬の幸福に比べたら惜しくもなんともないじゃない。
しっぽをつかまれた反動で後ろによろめいて、密着した彼のデニムのポケットの、携帯の振動が私の骨に伝わって、我に返る。
全てを犠牲にして、手に入れた一瞬の幸福も幻想。


私はあなたの信者じゃないのよ。我に返るわ。すぐに。


助けてよ、ドラキュラ。
あなたは私を、身勝手な女だと言う。被害者意識に満ちあふれた、情けない女だと。
だけどドラキュラ。
あなたは何を求めてるの。
次々に、同士にしては新しい血を求めるじゃない。根本にあるのは、相手への思いやりより愛情よりも、その満たされない欲望でしょう?

汚れた血のような、温い空気を緑の電車がやってくる。一人乗り込んで、閉まったドアにおでこをつけて、呟く。
助けてよ、ドラキュラ。
どうしたらいいの。離婚したいわ。ドラキュラ。私たちの関係も、婚姻届けのような紙一枚ならば、よかったのに。